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天皇と映画~映画における、時代ごとの天皇観~

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太陽
映画『太陽』より - Lorber Films / Photofest / ゲッティ イメージズ

 2019年4月30日、現在の天皇陛下が退位し、翌日から「平成」の元号も代わることになる。平成生まれにとっては初めての、昭和生まれにとっては2度目の改元、大正生まれにとっては3度目、明治生まれにとっては4度目だ。

 新元号の発表は年内に行われる可能性が高いが、さて、どのような漢字二文字になるのか。あーでもない、こーでもないと予測が飛び交い、発表直前などはやかましいことになるのだろう。明治以降、今上天皇まで4人の天皇がいる 。その150年ほど間に、いくつもの戦争を経験し、何度もの災害をくぐり抜け、とてつもない経済成長をも成し遂げた。

 天皇の劇映画への登場というと、激動の時代をくぐり抜けたためだろう、明治天皇と昭和天皇がほとんどである。大正天皇はまったく登場しないし、今上天皇(平成天皇)については、いまのところ作られていない(皇太子時代を扱った作品はある)。ただ、天皇の映画の取り上げ方を見ていると時代ごとの「天皇観」が透けて見える気がするのである。(山村基毅)

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江戸時代の名君のごとき明治天皇像

 俳優が天皇を演じる映画としては、『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男監督・嵐寛寿郎主演 新東宝・1957年)が初めてとなる。日本初のシネマスコープ(ワイドスクリーンによる映画)をうたい、(東映作品に先を越されてしまったが)新東宝が会社を挙げて製作、宣伝にあたったため、この作品は大ヒットを記録。封切りで8億円の興行収入を稼いだといわれ、会社は2匹目のドジョウ、3匹目のドジョウを狙い、すぐ『天皇・皇后と日清戦争』(1958)、『明治大帝と乃木将軍』(1959)と、3年間で同工異曲の作品を立て続けに製作した。すべて明治天皇は、もちろんアラカンこと嵐寛寿郎である。以後、アラカンは「天皇役者」と呼ばれるようになるのであった。

 後にアラカンは『明治天皇と日露大戦争』の出演依頼を受けた際の思い出を「《(明治生まれのワテらにとって)はいな、天皇はん神様ダ。それをチャンバラの役者に、アラカンに演れという、カツドウヤほんまにヤクザでんなあ》」と語っている(竹中労著・嵐寛寿郎著「鞍馬天狗のおじさんは 聞書・嵐寛寿郎一代」七つ森書館刊より)。

 恐れ多いという思いは、作り手より演じる側に強くあったようである。なお、『明治天皇と日露大戦争』の日露戦争部分は史実に沿って作られ、バルチック艦隊撃破後の戦勝行列までが駆け足で描かれている。しかし、ロシアとの開戦に慎重だった明治天皇が、多くの戦死者の報告に涙するというあたりは、半世紀前の日露戦争よりは、より近い太平洋戦争をイメージさせたのだろう。まるで時代劇に出てくる名君のようである。

 『明治大帝と乃木将軍』では、明治天皇は時折顔を見せる程度で主人公は乃木希典である。『明治天皇と日露大戦争』と同じく、林寛がそのまま乃木希典を演じている。乃木将軍を中心に据えているだけに、明治天皇崩御を聞いた乃木が殉死するまでが描かれるのだ。

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激動の時代、昭和の天皇がドラマの軸に

 時代による天皇観の反映ということでは、64年にわたって在位した昭和天皇が登場する映画のほうが、より顕著かもしれない。例えば『日本のいちばん長い日』は2度にわたって映画化されている。1度は1967年(岡本喜八監督・三船敏郎主演 東宝)、2度目が2015年(原田眞人監督・役所広司主演 松竹)。その間に50年の開きがある。かたや終戦から22年後、かたや70年後である。

 なお、「いちばん長い日」とは、昭和20年8月15日の正午、天皇による終戦の詔書(玉音放送)がラジオにて放送されるまでの一日のことである。時の鈴木貫太郎内閣におけるポツダム宣言受諾に至るまでの葛藤(特に阿南陸軍大臣が「無条件降伏」に反対し、本土決戦を唱える)、天皇の玉音放送の録音、最後まで降伏に反対する陸軍の将校や近衛師団参謀らによる玉音放送の阻止を企てたクーデター、武力による鎮圧と、目まぐるしい一日を描いた作品である。

 1967年版では、決起する陸軍将校(黒沢年男など)の一種狂信的な思想や行動が強調され(黒沢年男の目は完全にイッている)、和平に持ち込もうとする鈴木首相(笠智衆)や将校らを抑えきれない阿南陸相(三船敏郎)ら閣僚の印象が薄れた感はある。

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 そして、この作品での昭和天皇は御前会議、玉音放送録音の場面で姿を見せるものの、表情などは隠れたままなのだ(八代目松本幸四郎が演じているが、ほとんどわからない)。あえて戦争責任には言及しないが、戦争の幕引きについても、明確な意志を描いていない。これは、戦中派である岡本喜八監督のスタンスなのだろう。

 一方、2015年版では、昭和天皇(本木雅弘)の戦争終結に果たす役割ははっきりしている。また、この映画では天皇、鈴木首相(山崎努)、阿南陸相(役所広司)の3人が終戦に至る道筋を、3人なりに作っていくというストーリーになっている。三様に意志的な人物なのだ。

 御前会議におけるポツダム宣言の受諾などは、軍部の反対を抑えるため天皇の意志によってご聖断が下される。こちらは、終戦に対する天皇と閣僚の思惑が強調されているだけに、陸軍将校たちのクーデターの意味が不鮮明になったとはいえる。

 1967年版と2015年版の違いは、「何を描いたか」というよりも「何を描かなかったか」という点でもあろう。1967年版が「昭和天皇」そのものを徹底して不可視のものとして、そのことによって天皇の役割そのものも不可視としたのに対して、2015年版はクーデター将校たちの「狂気」を描かない。その代わり天皇をドラマの中心に据えて、重要な役割を担わせる。このことによって、天皇を登場「人物」として直視することになったのは確かなのだ。2つの作品の間の歳月が、そうした天皇観の違いを生み出したのだろう。

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マッカーサーとの会談の描き方

 終戦時の昭和天皇を登場させた作品として、さらには『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督・イッセー尾形主演 2005年)と『終戦のエンペラー』(ピーター・ウェーバー監督・マシュー・フォックス主演 2012年)がある。

 いずれも外国の製作会社、外国人監督(ロシア人とイギリス人)、そして終戦直後の天皇とダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官との会談の場面がヤマ場に置かれている。

 しかし、色合いはかなり異なる。『太陽』のほうは、開戦や終戦に対する天皇の責任には一切触れず、「天皇」という一個人の孤独、苦悩、寂寥感(せきりょうかん)が描かれる。天皇(イッセー尾形)は侍従の世話を受けているのだが、しかし誰にも心を開けず、また、周囲もまた本音を告げようとはしない。その中で戦況は悪化し、ついには敗戦を受け入れなくてはならなくなるのだ。

 終戦に至る前、侍従長(佐野史郎)が必死で天皇の神格化にこだわるのだが、すでに天皇は「わたしの体は普通の人間と変わらない」と主張するのだ。また、疎開していた皇后(桃井かおり)が戻ってくると、その胸に顔を埋めて安堵するのである。

 マッカーサーとの会談場面は、その緊張ぶりと、しかし「言うべきことは言う」という強い姿勢がないまぜになり、妙に深みのある人間像が浮き彫りになっていた。

 イッセー尾形は、かなり研究したのだろう、実在の昭和天皇の表情の動きを増幅させて演じていく。ただ、そうして模倣してみせる昭和天皇は、かなり晩年の姿ではないか。終戦時、昭和天皇は44歳である。もう少し若さがあってもいいような気はするが。

太陽
戦争に翻ろうされた昭和天皇を演じたイッセー尾形 映画『太陽』より - Lorber Films / Photofest / ゲッティ イメージズ

 『終戦のエンペラー』のほうは、正面から「天皇の戦争責任」を扱っている。親日家のボナー・フェラーズ准将がマッカーサー司令官の命を受けて、「天皇に戦争責任があったか否か」を調査していくのだ。すでに逮捕されていた元首相・東條英機(火野正平)や元首相・近衛文麿(中村雅俊)などを訪ねては聞き取りを行っていく。しかし、誰も天皇の責任について明確な返答はしないのである。

 一方、フェラーズ准将は開戦前にアメリカ留学をしていた日本人女性と恋愛関係となり、日本駐在時には帰国していたその女性とデートを繰り返していた。フェラーズはその日本人女性、島田あや(初音映莉子)を探そうと手を尽くすのだった。

 いずれ政界に打って出るつもりのマッカーサーは、占領下の日本統治で成功を収めたい。そのためには、天皇の戦争責任をどう扱うべきか。そうした思惑も絡んで、調査はより複雑になっていった。

 太平洋戦争の開戦時やポツダム宣言受諾時における天皇の「意志」がどのようなもので、どう反映されたのか。そこを焦点として、フェラーズはさらなる証言を得ていくのだが……。

終戦のエンペラー
映画『終戦のエンペラー』 - Lionsgate / Photofest / ゲッティ イメージズ

 この映画で昭和天皇(片岡孝太郎)が登場するのは、最後のマッカーサーとの会談場面である。フェラーズが会談の手はずを整えるのだが、握手をしてはいけないだの、写真撮影はNGだのと、さまざまな制約をつけられて会談は実現をする。ところが、天皇はむしろ自らマッカーサーに歩み寄り、語りかけていく。

 先の『太陽』の天皇が年齢以上に疲れて見えるのに対して、こちらの天皇は、悩める青年のごときである。天皇とマッカーサーとの会談という同じような事実を描きながらも、観る者の印象は大きく異なってくるのだ。

 天皇が一人の登場人物として描かれることで、天皇観はさらに変化していくはずである。初めて改元を経験する者にとって、天皇はどのように見えているのか。世代を超えて通じるものがあるのか。そのあたりもまた映画が描いていくのかもしれない。

山村基毅(やまむらもとき):1960年、北海道出身。ルポライター。インタビューを基軸としたルポルタージュを発表。著書に『ルポ介護独身』(新潮新書)、『戦争拒否』(晶文社)、『民謡酒場という青春』(ヤマハミュージックメディア)とさまざまなテーマにチャレンジしている。映画が好きで、かつて月刊誌にて映画評を連載したことも。

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